ドストエフスキーの心理的探求

ドストエフスキーを読むと、人間の心理の探求は、もうこれ以上に行き着くところがないことを感じる。
いや、行けるのかも知れないが、それはもはや何の意味もないことなのだ。

僕はもう内面にはなんの興味もない。あるのは「外面」「表層」だけである。
外見・見かけこそこの世の神秘であり、不可解なものであり、探求すべきものなのだ。

目に見えているものほど、神秘的なものはない。
目に見えないもの・形而上学的なものは、信じがたいほど俗悪である。
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作家と作品

作家が作品を書くのではない。

作品こそ、作家を真に描くのである。

入試問題に使われる著作

またある大学から「あなたの著作を今年の入試問題に使わせていただきました」という知らせが届いたが、これはどういうシステムなんだろう。
去年の某大学は事前通知だった。
そもそも、入試問題には作者の了解を得ずに勝手に使っていいのだろうか?
まあ、僕としてはどっちでもいいが。

それにしても、物書きとしては、試験問題に使われるより、本が重版になるほうが嬉しいに決まっている。
それと、僕が頭の調子の悪い冬に無理やりひねり出した文章を、わざわざ国語の試験に使う大学は、何を考えているのかわからない。

ドストエフスキー『悪霊』

ドストエフスキーの『悪霊』、上巻の半分くらい読んだが、まだよくわからない。
すでに登場人物が百人くらい出てきているのに、まだ何も事件が起こっていない気が……。
それとも、すでに起こっているのだろうか?
そもそも、主人公のはずのニコライがいまだほとんど姿を見せないのはなぜなんだ。これにはやはり深い意味があるのだろうか。

欧米社会の集団妄想

なかなか読めなかった『欧米社会の集団妄想とカルト症候群』をようやく読み始める。

魔女は有名だが、「牛乳魔女」や「バター魔女」がいたのには驚いた。
要するに、自分の乳牛があまりミルクを出さないとき、うまくバターが作れないとき、隣の魔女が邪魔していると訴えたそうだ。
魔女という割にはあまりにセコすぎる。
また、魔女の出現と当時のヨーロッパの気候には、不可解な相関関係があったらしい。

読書会でも取り上げたホームズ物に出てきたKKK、初めは政治的なものではなく、変な服を着て周囲を驚かせる、ただの悪ふざけの団体だったという。

非論理的なもの

非論理的なものは、この世に存在しない。

一見非論理的に見えるものは、それ自身の論理に従っているだけである。

中立の極意

右も左も、行きすぎはよくない。

そして、中立も行きすぎはよくない。

創造者

カフェにて、隣の席で就活生が、面接の心得について延々と話しているのを聞き、心から「僕はサラリーマンには慣れないな」と思った。
あの情熱には勝てそうにもない。

僕はやはり、創造者としての道しかなさそうだ。
改めて強く思った。