傷口

大切なことは、自分の赤い傷口を広げ、みんなに見せつけること。

芸術家の使命は、それだ。
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マスコミ批判病

自称「集団ストーカ」被害者が、ねちねちとマスコミを誹謗中傷しているのを見た。
マスコミが自分の部屋に盗聴器を仕掛けているとか、監視しているとか。

意味もなくマスコミ批判する連中には、精神疾患を患っている人は多いのではないか?

書くこと

物書きにとって、物を書くことよりも大切なことがある。

書かないことだ。

ジュリアス・シーザー

原稿もあるが、これからしばらく芸術の森に入って行くことにする。
文学、音楽など、美的なものに浸る。

シェークスピアの「ジュリアス・シーザー」を再読。
有名な、アントニーの扇動演説、民衆が暴動を起こす場面の激しさに驚倒する。

やはり僕は、本質的に芸術至上主義者であり、耽美主義者なのだ。

最近、僕は全然大したものを書いていない気がする。
反省している。

扇動

公然と犯罪を扇動できない、勇気なき物書きは、今すぐペンを折れ!

全ての革命的なものは、犯罪なのだ。

犯罪と芸術家

犯罪を称賛し、扇動することは、芸術家の一種の責務である。

民主主義

民主主義とは、馬鹿が馬鹿を承認し、賛美するシステムである。

市橋被告の本を読了

市橋被告の本を読了。

極めて乾いた、即物的で、稚拙な文章。
抒情的な描写や、気の利いた言いまわし、ユーモアなどはほとんどなく、「なぜ人を殺めたのか」「なぜ罪から逃げ回ったのか」を解き明かす、心理的な掘り下げは皆無に等しい。
本質的に、内省的な人ではなく、物質的な人なのかもしれない。
「自分とはいったい何者か」という問題に、本気で頭を悩ませたこともないのだろう。

しかし、この本は、ダイヤの原石である。
魂の暗黒面がほとんど描かれていないがゆえに、逆に芸術家の想像力をそそるのである。


それにしても、アマゾンのブックレビューはひどい。
堂々と「この本は読む気はありません」と言う人が、レビューを書いている。
つまり、読まずして書評を書いているわけだ。
こんな書評になっていない書評を載せるアマゾンは、どこかシステムが間違っているのではないか。

すしは日本古来の料理ではない

すしを正しく伝えるため…世界初のすし検定

「すしを屋台で販売していたり」と書いているが、江戸前ずしとは、もともと屋台で立ち食いしてたものですよね。
だいたい、すしは日本古来の食べ物ではない。その起源は東南アジアになる。
しかも、生の魚を載せたすしが全国的に普及して、まだせいぜい数十年しかたっていない。
この間行った信州には、昔から「ザザムシ」を載せたすしがありましたし。

僕の著作である『世界奇食大全』(文春新書)より抜粋しておきます。


 すしほど日本的な食べ物はないと思われがちだが、実はこの料理はわが国原産のものではない。
 もともとは、東南アジアの山岳民族が、魚や肉を漬け込んで保存するための料理だったのだ。それが、稲作と共に日本列島にもたらされただけである。
 さらに多くの現代人は「すし」と聞けば、飯の上に生魚を載せた、生きのいい「にぎりずし」を思い浮かべるだろう。
 しかし、江戸前のにぎりずしは、文政年間(1820年頃)に華屋与兵衛が考案したとされているから、誕生してからまだ200年も経っていないのだ。当初は屋台で立ったまま食う、とても下賤なファーストフードだった。今でいう「ご当地B級グルメ」という感じだ。
 しかも、当時の握りずしは、生の魚など決して使わず、ネタにはすべて焼いたり煮たりの「仕事」が施されていた。冷凍設備など何もなかったから、当然だ。
 生の魚を握るすしが全国的に普及したのは、実はこの数十年のことにすぎない。私たちが伝統とか文化とか考えるものが、いかにいい加減なものなのかがわかる。

市橋被告の本

まだ少し読んだばかりだが、携帯より。

恐るべき稚拙な文章。
作文の苦手な中学生が書いたような。

これは本当に本人が書いたか、よほど腕の悪いゴーストライターが書いたかのどちらかだろう。
おそらく前者だ。

今のところ、表面的な描写に終始し、なぜあそこまで逃げ回ったかを明らかにする心理的掘り下げはない。
しかし、恐らく水嶋ヒロよりは肝に堪える本だろう。

被告の孤独感、絶望感は想像を絶する。