サイケデリック・ヨガ

ヨガを再開して二週間。
僕の感覚に、奇妙な変化が現れるようになった。

別に、大したことをしているわけじゃないんだ。
ポーズをいくつかとり、ヨガの呼吸法をやるだけである。

だが、に、

レッスンを終え、頭をすっきりさせたあと夜の街に出ると、夜のネオンサインが、不思議なほど美しく、揺らめいて見えた。
まるで魔術にかけられたかのように。


と書いたような、視覚、特に色彩感覚に変化が現れはじめたのだ。
ヨガをやった直後の話だが、特に赤や黄色が奇妙なほど美しく、輝いて見えるのである。
それは、
「この世はこんなに美しかったのか……」
という感動であり、驚きだった。

しかし、まわりで能天気にヨガをやっているオバハンたちには、そんなことはまるで起こってないようなので、これは僕だけの特殊な現象なのだろう。

前回、戯れに、
「ヨガとは、一種のドラッグなのかもしれない」
と書いたが、これはまさに正鵠を射ていたのかもしれない。
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バッハの「ゴルトベルク変奏曲」

今、カール・リヒターが1956年に録音した、バッハの「ゴルトベルク変奏曲」を聴いている。
いや、まったく素晴らしい。

「ゴルトベルク変奏曲」と言えば、グレン・グールドの演奏があまりにも有名だが、僕はあまり好きではない。
あまりに知的すぎ、冷たく聞こえるのだ。
インテリには受けるだろうが、残念ながら僕はインテリではないのだ。

しかしリヒターは、バッハのこの曲を、厳格かつ激情的に弾いている。
その激情ぶりは、まるで表現主義の音楽のように聞こえる。
フレージングの一つ一つが明確で、燃えあがるように響きわたるのだ。

リヒターは、「バッハの音楽をロマン主義の音楽にした」と批判されたそうだが、僕はやはり情熱的な音楽が好きなんだな、と改めて思った。

バッハを聴く

このところ、バッハのチェンバロ独奏曲ばかり聴いている。
パルティータ、フランス組曲、イギリス組曲などを。

長い間僕は、ヨハン・セバスチャン・バッハがわからなかった。今でもわかっているとは言いがたいが。
しかし、神経が過敏になっている時は、今まで好きだったワーグナーやフォーレのように、激情の奔流を音楽にしたような作品は、耐え難いのである。

バッハがよくわからなかったのは、それが「頭で考えて作った音楽」のように聞こえたからだ。まるで数学者が創った音楽のように。
本当はそうではないのかもしれないが。

しかし、感覚が敏感になりすぎている時には、激情をある鋳型に収めたような、節度のある音楽が好ましい。
特に、チェンバロのかわいらしい音は、僕の心を優しく愛撫してくれる。
癒してくれるのだ。

バッハの「ゴルトベルク変奏曲」を革命的な手法で演奏したグレン・グールドは、ある時期から、バッハ以外の音楽は、一切受け付けなくなった。
その気持ちが、今なんとなくわかる気がする。

ヨガを再開

CIAと男性差別主義者の卑劣な奸計により、一時中断を余儀なくされていたヨガだが(そのてん末はこちらを)、ようやくわりと近くで、男でも受け入れてくれる教室が見つかったので、行ってみることにした。

それにしても、ヨガというのはいろんな流派があり、いろんな手法があるので、指導するインストラクターによってぜんぜん違ってくる。

今回のインストラクターは、たぶん60歳前後の女性で、はんなりとしていて、なんか年寄りが縁側で盆栽でも眺めながらお茶でもしているような気分になってくる。
といっても、生徒には若い女性もいるのだが。ここでも、男は僕一人だった。よくあることだけど。

現代の男どもには、ヨガをやる気力や余裕すらないのか、それともヨガというものはもともと女性的なものなのか(そんなことはないだろう。インドには男のヨガ行者がいっぱいいる)。

レッスンは夜の八時から九時まで。
レッスンを終え、頭をすっきりさせたあと夜の街に出ると、夜のネオンサインが、不思議なほど美しく、揺らめいて見えた。
まるで魔術にかけられたかのように。

ヨガとは、一種のドラッグなのかもしれない。

花園酉の市&見世物小屋&ボジョレー&上海蟹ツアー

去年も同様のツアーが行われたのですが、今年もやるそうです。ディープな新宿ツアー。

参加ご希望の方は、僕までコメントかメールをください。
ちなみに、僕が書いた去年のツアーのルポはこちらです。
以下は、主催者の西牟田靖君のブログより。

ケセラ・セラ

「最良の法律家は最悪の隣人だ」という言葉がある。

たとえ法的には自分が正しくても、それを押し通すことが、かえって悪い結果をもたらすことがある。
その場合、この世の不条理に身をゆだねながら、「ケセラ・セラ」とでも歌うしかない。

今、僕が悩んでいること。