見世物小屋と性

今、『図録 性の日本史』(笹間良彦著、雄山閣)という本を読んでいる。

これはすごい本で、神話時代の日本から現代まで、あらゆるセックスの形や、性産業を綿々と書き連ねてある。
すべてイラスト入りで、しかも女性を妖艶に美しく描いているので、そういう意味でもなかなか素晴らしい本だ。

いろんな形の娼婦がいたのがわかる。
例えば、枝豆売り(枝豆を売ると見せかけて、実は娼婦)、綿摘み(綿摘みの労働者だが、休み時間に他の綿摘み男と交わる)、新聞雑誌縦覧所の女(明治時代、新聞を立ち読みできる場所があり、そこで客を引く女)など、よくこれだけいろいろ考えるなあと感心するものばかりだ。大変勉強になる。

そしてその中で、気になる記述を見かけた。
「蛇つかい女」というのがいたそうだ。
江戸時代の見世物小屋で、裸体に蛇を這わせて見せる女がいたというのだ。

僕は前に、「見世物小屋と豚の脳みそ」というタイトルで、日本で最後になったという見世物小屋を見てルポを書いたが、ここには「蛇食い女」という老婆が出てきた。

上記の「蛇つかい女」は明治時代に政府によって禁止され、絶滅したという。
しかし、これこそ「蛇食い女」の源流なのだろうか?
「エロ」が政府によって否定されたので、「グロ」に方向転換して生き残りをかけた、というところなのだろうか?
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鉄道と時間と僕らの失ったもの

有名な話。

インドでは、鉄道はよく遅れる。
数時間、半日遅れは当たり前で、乗客もそれをよく分かったもんで、飯を食ったりおしゃべりしたりして、気長に待っている。

ところがある日、なんと列車が定刻どおり到着し、発車してしまった。
乗り遅れたインド人たちは激怒し、駅員に食ってかかった。
「定刻どおりに発車するなんて何事だ!こっちは遅れるのを想定して、飯を食ったり昼寝していたんだぞ。この責任をどうやって取るつもりだ!」

抗議を受けた駅員は、すました顔で言った。
「お客さん、あれは昨日の列車なんですよ。今日の列車は、『定刻どおり』あと一日は遅れますので、ご心配なく」


今回の、福知山線の列車事故を見て、思いだした話だ。
問題の列車は、なんと「一分半も」遅れていたらしい。
JR西日本にとっては、許しがたい遅れだったのだろう。

そういえば、前に蔵前仁一氏の本を読んでいると、こんな話が載っていた。
「東京駅には2分遅れて到着します。お急ぎのところ、まことに申し訳ございません」
という新幹線の車内放送を聞いて、日本に来たユダヤ人女性が爆笑していた、というのである。
「日本では、2分の遅れで謝るのね」
もちろん、謝ってもらったところで、一銭の金もでないのだが。

僕がかつてベルリンに行ったときは、列車が遅れるどころか、途中で走行を放棄してしまったことがあった。
ある駅で停まったまま、うんともすんとも動かない。
あまりに停車時間が長いので、
「この電車、ここから動かないんだな……。仕方ないから次のに乗ろうか」
とみんながなんとなく察知し、ゾロゾロ外に出始めた。

その間、アナウンスも何もない。
もちろん、お詫びの放送などあるわけがない。
電車は勝手に走り、勝手に走るのを放棄しただけである。
乗客は取り残されたままだ。

しかしそれはあまりにも無責任で、サバサバした光景だった。
別に腹も立たなかった。「ああ、この国はこうなんだな……」と思ったくらいだ。
電車が数分遅れたくらいで怒り狂ったり、意味もなく携帯電話で連絡を始める人々にはわからないだろうが。


僕らはいつから、こんなにセコセコした生活を始めたんだろう、と思う。

素敵な飲酒運転

今日、飲酒運転をしている男を見かけた。

といっても、運転していたのは自動車ではない。「自転車」である。

右手に缶ビールを持ち、左手だけでグリップを握り、ふらふら嬉しそうに自転車をこいでいるのである。


「飲酒運転」といえば自動車だと思っていた僕は、固定観念をくつがえされ、衝撃を受けた。
斬新な飲酒運転である。

いや、ひょっとしたら、前衛アートか何かのパフォーマンスだったのかもしれない。
そこまでの思想性を感じ……た(感じないが)。


驚異はいつも、道端に転がっている。
新しいことは、ストリートから始まる。

確実にお金が儲かる方法

ある雑誌に、「確実にお金が儲かる方法をお教えします」という広告が載っていた。
一万円払えば、その方法を教えてくれるという。

僕は一万円を振り込み、待ちつづけた。
しばらくすると、その業者から、一通の手紙が届いた。
喜び勇んで開いてみると、そこにはこう書いてあった。

「あなたも私と同じことをしなさい」

反日デモを支持しよう

民主主義が確立されていない国でデモが起こると、多くの人はそのデモを支持するのに、今回の反日デモだけは、中国政府に、
「もっとデモを弾圧してくれ!」
と要求するのは、すばらしい光景ですね。

この前のウクライナのオレンジ革命を賞賛したり、フセイン政権が倒れたあと、バクダッドですさまじい略奪が起こっているのに、「これは自由の代償であり、しかたない」と言っていた人は、どこに行ったのでしょう。

民主主義者なら、今回の反日デモを支持すべきなのです。
今、あの国に、まさに「自由」の灯火がともろうとしているのですから。
現に、今回の反日デモについては、中国政府は必死で阻止しようとしています。

奇祭の連載第二回目「化け物祭り」

リンククラブ ニューズレター」5月号に、僕の連載「文化再発見の旅 ニッポン奇祭めぐり」の第二回目、「化け物祭り」が掲載されました。山形県鶴岡市の祭りです。

手ぬぐいと菅笠で顔と形を隠した「化け物」が、通行人に意味もなく酒を注いで回るという祭りで、かつては化け物が車やバスを勝手に停め、運転手に無理やり酒を飲ませたり、顔や姿がわからないということで、相当な性的乱交が行われたといいます。
日本版の「仮面舞踏会」といった祭りです。
ぜひ一度ご覧ください。

タブー

タブーとは、言うまでもなく、破る人間がいるからこそ「タブー」なのである。
誰も破らず、破ろうともしないものは、それはタブーなどではなく、ただの「のっぺらぼう」だ。

だからタブー側は、自分を侵害し、冒涜してくれる人に感謝するべきなのである。
タブーの存在意義はただ一つ、「破られること」にしかないのだから。

4月4日は「オカマの日」

今日新聞で初めて知りましたが、4月4日は「オカマの日」だそうです。

3月3日が女の子の日、5月5日が男の子の日なら、その中間の4月4日は「オカマの日」ということで、誰が決めたかはわかりませんが、そうとう安直に決められたようです。

もっとも、世界的に「ゲイの祭典」として知られる奇祭「かなまら祭り」(川崎)は、4月の第一日曜日ですから、偶然にも4月4日に接近しています。
4月4日を「オカマの日」とするのは妥当なところでしょう。
(かなまら祭りについては、僕が『日帰りで行く関東の祭り』の中で、書籍としては初めて詳細にガイドしていますので、ぜひご覧ください)

ところで、男の日、女の日、オカマの日、というふうに決めてきたら、あとは何でも作れるんじゃなんでしょうか。

サドの日、マゾの日、ロリータの日など、いくらでもできるでしょう。

ちなみに、サドの日は3月10日、マゾの日はザッヘル・マゾッホの誕生日の1月27日にすればいいです。

ロリータの日は、『ロリータ』の作者ウラジミール・ナボコフの誕生日の4月23日。
別にルイス・キャロルの誕生日(1月27日、なぜかマゾッホと同じです)、ビル・エヴァンス(ジャズピアニスト)の誕生日(8月16日)でもいいです。

それぞれの日に、それぞれの嗜好の者が集まって、狂乱の祭りが展開されることを期待しています。

恵方巻の謎~「伝統」とはどこからやってきたのか2

前回は、「アフリカの黒い瞳」というタイトルで、「伝統」と称するものが、いかにでたらめでインチキなものか、ということを明らかにした。
何しろ、ある時フランス人がアフリカの原住民に教えた「黒い瞳」が、10年後には「1000年前からアフリカに伝わる伝統の歌」になっていたのだから。
そして、現代日本でも、これとそっくりの「伝統の捏造」が行われ、多くの人がだまされている。

それは、節分の日にある方角を向いて食べるという「恵方巻」である。

これの起源は、ほとんどわかっていない。関西が発祥の地と言うことになっているが、関西出身の僕はこんな風習を全然知らなかったし、大阪に住む年寄りに聞いても、「そんなん知らんで」という。

つまり、これは最近になってでっち上げられた「伝統」なのだ。どうやら、海苔業界とコンビニがタッグを組み、売り上げを伸ばすために伝統を捏造した、というのが真相のようだ。
お菓子業界が、バレンタインデーにチョコを贈る、という風習を捏造したのとそっくりである。

それにしても、こんなにもあからさまな「騙し」がなぜ堂々と成功してしまったのか。
それは、多くの人の「知ったかぶり」にあると思う。

「節分の日には、決められた方角を向いて、恵方巻を食べるんですよ。これが日本の風習なんですよ……」
ともっともらしく言われると、
「ああそうか、そう言えばそんなこと聞いたことあったっけなあ……。そうそう思い出した」
などと考えてしまい、
「そんなん知るかいな、ボケ!カス!」
とはっきり言うことができなかったのである。
恵方巻の流行は、こういった人々の知的劣等感と、虚栄心と、記憶の曖昧さを見事に突いたのである。
そして、人々が「伝統」や「風習」という言葉にいかに弱いかを、はっきり証明しているのだ。

だから、
「これは日本の伝統だから、あなたも守りなさい!」
などと言ってくる連中は、絶対に信用しないほうがいい。
その「伝統」とやらは、実はせいぜい十数年ほどの歴史しか持たない場合が多く、彼らが「伝統」を持ち出すときは、それは単に「自分の好み」や「政治的イデオロギー」を押し付けるためである場合が多いからだ。

「日本の伝統だから」と主張して、日の丸や君が代にひざまずくのを強制する連中が、まさにそれである。


「伝統」を持ち出す人間は、すべて詐欺師だと思っていい。