乞食祭り

4月1日、エィプリル・フールの日、岐阜県の川辺町に「乞食祭り」というのを見に行きます。
これは、神社に乞食の格好をした男がうろつき、その男の上に「赤飯」をかける、というものです。

全国30万ある祭りの中で、「乞食」が出てくるのは、ここだけだそうです。
何の自慢にもなりませんが。
スポンサーサイト



ネットの論争

ネットの論争には、勝者も敗者もない。
あるのは、ただ「死者」のみである。

だからこれは無意味な戦いであり、賢明な人は立ち入らないほうがよい。
こんなところからは、原稿料は発生しない。

談話室・滝沢でインタビューされる

ある雑誌の祭りの特集で、監修をやるということになり、インタビューを受ける。
意味はないが、僕が、
「談話室・滝沢でやりましょう!」
と強く宣言したので、そこでやることになった。
滝沢はもうすぐ閉店するので、この機会を逃すと一生、滝沢には行けなくなるからだ。
別に惜しくはないが。

中に入ってみたが、一見普通の喫茶店としか思えない。もっと個室があったり、洞窟の中でインタビューされるような、もっと淫猥で秘密めいた雰囲気を期待していたのに。
客層は、8割方老人だろうか。どこからこんなに老人を集めてきたか、不思議である。
僕の知らないところで、老人たちの間で、「死ぬ前に行く談話室滝沢ツアー」なるものが大流行しているのだろうか。

インタビューは、大受けだった。
僕は真面目に日本の祭りの魂や、その歴史について語っているつもりなのに、インタビュアーの女性と、カメラマンの男性は笑い通しなのである。「談話室・滝沢」にふさわしい、高尚で優雅な話をしたはずなのに。
とにかく、うまくいったようでよかった。

この滝沢、コーヒーが1000円もする。
しかし、ケーキとセットにすると、なんとたったの1100円だ。ケーキはわずか100円ということになる。
「さすがは談話室滝沢、ケーキに力を入れていて安いなあ……」
というわけではなく、もちろんコーヒーが高すぎるのである。

しかも、コーヒーも、紅茶も、カフェオレも、抹茶も、オレンジジュースも、すべて値段が1000円というのに痺れる。
原価はどれも全然違うはずだが、そこに「滝沢の謎」が隠されているのだろう。


それにしても、「談話室・滝沢」に巣くっていたおじいさん、おばあさん。
いったい彼らは何を「談話」していたのだろう。
ぜひ知りたい。
というか、全然知りたくはないんだけど。

アフリカの黒い瞳~「伝統」とはどこからやって来たのか

20世紀初頭のある日、一人のフランスの文化人類学者が、アフリカの奥地に足を踏み入れた。

そこはまだ西洋人が一度も来訪したことがない秘境の地で、そこでこの青い目の学者は、現地人から疑われながらもしだいに理解され、歓迎され、ついにはしばらくそこで共に暮らすことになった。

ある夜、アフリカながらも夜は冷えるその奥地の村で、村人たちが焚き火を囲みながら談笑していると、ふいにそのフランス人がやって来て、ある歌を歌い始めた。
村人たちはぱたりとおしゃべりをやめ、じっとその歌に耳を傾け始めた。
フランス人がその歌を歌い終えると、現地人は感動して、口々に尋ねてきた。
「すばらしい歌だ。初めて聞いた。それはなんという歌なんだ?」

フランス人学者は、これはジプシーの民謡である「黒い瞳」という曲だと教え、ヨーロッパでは誰でも知っていて、愛されている歌だと説明した。

村人たちは、シンプルながらも哀愁に満ちたこの曲の、とりこになってしまった。
彼らはフランス人に、もう一度歌ってくれとせがみ、そしてついには、自分たちでも歌い始めた。
そして彼らは焚き火を囲み、この異国の名曲に酔いしれながら、歌いながら、一夜をすごしたのである。


出会いがあれば、別れもある。
フランス人学者は数ヵ月後、村人たちに惜しまれながら、村を去っていった。

だが、その10年後、今度はイギリスから別の文化人類学者が、この村を訪れた。
このイギリス人学者は熱心な男で、この村の伝統、風習、宗教、芸術表現などを積極的に集めていた。

ある夜、このイギリス人は村の長老を呼び、こう懇願した。
「あなた方の間で伝わる、伝統の音楽を聞かせてくれないか?」
長老は深くうなずき、おもむろに口を開いて歌い始めた。

イギリス人はそれにじっと耳を傾けていたのだが、そのうち顔色が変わり、疑惑の表情が浮かび始めた。
そしてついにはこう叫んで、長老の歌を制した。
「ちょっと待ってくれ!」
長老は歌うのをやめ、奇妙な目でイギリス人を見つめた。
「待ってくれ。私はその曲を知ってる。ジプシー民謡の『黒い瞳』だろう?ヨーロッパでは大ヒットしていて、我々はみんな知っている。そんな歌じゃなくて、あなた方の民族の間で、何百年も、何千年も伝わる歌が聞きたいんだ」

驚くのは村の長老のほうだった。彼はイギリス人の青い瞳をじっと見つめながら、こう言った。
「何を言ってるんだ。これこそ、我々の村に伝わる、何千年も前からある古い歌だ。私も子供のころからずっと歌ってきた。あなたは何か勘違いしてるんじゃないか?」

この騒ぎを聞きつけて集まって来た村人たちも、口々に、そうだ、これこそ我々の先祖の歌だ、何百年も前から歌ってきた、俺たちも子供のころから歌ってきたのだ、と言い始めた。

イギリス人は、狐につままれたような思いをした。
そして、ため息をついて夜空を仰いだ。
そこには、何千年も前から変わらぬ星たちが、残酷なまでに美しくまたたいていた。
その青い光が、異邦人の孤独な心を貫いた……。

* * * * * * *

この話は、完全に実話である。
今世紀初頭、アフリカの奥地で、このような事件が本当に起こっていたのである。
そしてこの話は、私たちが「伝統」と考えているものが、いかにもろく、いい加減なものであるかを、教えている。

さて、この話を読んで、あなたはこのアフリカの原住民たちを笑うだろうか?
「さすが野蛮人だな。おまけに無文字社会だろうから、伝承なんて口伝えしているうちに、簡単にねじ曲がってしまうのだろう。哀れな連中だ……」
と思うだろうか?

そうではない。
これとそっくりのことが、現代日本でも起こっているのである。
しかも、つい最近。
実は、あなたもこの「捏造された伝統」にだまされ、それを実行に移してしまったかも知れないのだ……。

(以下次号)

才能とは

才能とは、祝福ではなく「呪い」である。

それは、脳髄に貼りついた暗い蝙蝠であり、宿痾なのだ。

奇祭の連載が始まります

このたび、「リンククラブ ニューズレター」というMacユーザー向けの月刊誌で、「文化再発見の旅 ニッポン奇祭めぐり」という僕の連載が始まりました。この雑誌は、公称10万部です。

連載第一回目は、滋賀県米原市の「鍋かむり祭り」という奇祭をレポートしています。
これは、少女たちが頭に鍋を載せて行列するという奇妙な祭りで、かつては女性たちが、自分が関係した男の数だけ鍋を頭に載せて歩いたというものです。

なぜ、そのようなことが行われていたのか……。その謎を、僕が奇祭評論家として解明していきます。
ぜひ一度、ご覧ください。

芸術家の実質と虚構

芸術家の評価とは、半分が実質、半分が虚構である。

例えば、「ピカソが描いた」というだけで、ある絵が何百万円もしたりする。実は、ノートの端に書き込んだ、ただの落書きなのに。
これは大衆が、ピカソという芸術家の「虚構」の部分にだまされ、眩惑されているのである。

実質がまるでなく、虚構の部分しかない者は、それはただの「エセ芸術家・ペテン師」である。
このような人種は、一時的には大きな成功を収めることはあるが、すぐに忘れ去られていき、死後にはもう誰も覚えていない。

実質は完璧にあるが、虚構がないのが、「芸術家のための芸術家」と呼ばれる人々である。
彼らは玄人や、批評家や、芸術家の間では圧倒的な尊敬の念を集めるが、素人にはなかなか理解できない表現をする。
作曲家ではフーゴー・ヴォルフ、詩人ではゲオルク・トラークル、美術家ではマルセル・デュシャンなどがこれにあたる。

しかし、大芸術家とは、実質と虚構を、100%合わせ持った存在である。

彼はペテン師であるとともに、本質を求める偉大な存在である。
だから、芸術を志す者は、実質と虚構の両方を愛し、どちらもゆめゆめ軽視したり、過小評価したりしてはならないのである。

ひな祭りには蛤を……

よくわからないけど、日本のある地域では、ひな祭りの日に「はまぐりのお吸い物を吸う」という習慣があるそうですね。
関西人の僕は、初めて知りました。
この国に、そんなに卑猥でステキな伝統があったなんて。

この場合、「はまぐり」が何を意味しているかなんて、小学生でも分かるでしょう。言うだけ野暮です。フロイトを持ち出す必要もないですね。
やっぱり、「女の子の祭り」なんですねえ。

ただ、ひとつだけ不思議なことがあります。

それならなぜ、五月五日の男の子の日には、「マツタケのお吸い物」を吸う習慣がないのか、と。
そのころはマツタケは旬じゃないからでしょうか、それとも単に「マツタケは高い」からでしょうか。

男どもも、鯉のぼりを泳がせたり、新聞紙でカブトを作って遊んだりしている場合じゃありません。
こんなところに、男がないがしろにされ、差別されている日本の現状が浮き彫りにされているんですよね。


ところで、次回くらいから、「日本の伝統」というものが、いかにいい加減で、デタラメに作り上げられた物かを、順序立てて解明していきたいと思います。
とりあえずタイトルは、「アフリカの黒い瞳」。
日本の伝統の謎を解き明かす旅が、なぜかアフリカの奥地から始まります……。

完璧主義

やっぱり俺は、完璧主義すぎるところがあるからあかんのかなあ。

ちょっとは反省してみようかな。

芸術家と狂気

芸術家とは、自分自身を信じる狂人である。
自分の美意識を至高のものとし、それ以外のやりかたを絶対に認めないのが芸術家だ。

だから、他人の批判や中傷は、むしろ賞賛だと思って歓迎すればよい。
卑小な人間は、中傷や罵倒をする以外に、天才に対して畏敬の念を表すすべを知らないのだから。